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公認の許可地「柏木田」に対し、私娼街から発展した赤線で、近年まで現役だった色街。

『全国女性街ガイド』によれば、「百五十軒、四百名の女が、”夢よ、もう一度”と海上警備隊さんを相手に春を売っている」。


かつて床屋さんだった一軒。「良美軒」の文字が見えるが、カフェーの屋号か。



かつてのメインストリートと思われる通り入口にゲートの骨組み。反対側にもあった。



メインストリートの街並み



タイル貼りの壁に面した細路地。



色街に付き物の銭湯



路地に残るかつて旅館だったらしき一軒



珍しいタイル装飾の壁を持つ一軒。ポーチにもタイルが敷かれている。



モダンな古い街灯がこの界隈だけでも数カ所見られる。



コーナーがタイル貼りの一軒。看板が入っていたと思しき枠が残っている。



歩道にアーケードが架かっている横須賀街道。モダンな床屋さんが残る。


訪問 2018年8月





「安浦」「柏木田」と並ぶ”横須賀三大赤線”の一つ。

『全国女性街ガイド』によれば「四十三軒ほど」あったと云われる。

過去に訪れたことがあるが、北側にも遺構があるという情報を聞き、今回はそちらを重点的に散策。

なお、過去に訪れた際の代表的な遺構は解体されている(上記写真もその一軒)。

最寄り駅は京急田浦。


★アーケード街から外れた路地の風景




★『赤線跡を歩く』でも登場する代表的遺構。この訪問後に建物は解体される。




★向かいに建っていた木造の妓楼風家屋。これも現存していない。



コーナーにアールを持つカフェー建築。現在はデイサービスが入っている。



見越しの松がある妓楼風の一軒



二階にアーチ形の窓が並ぶカフェー建築。入口にバーの鑑札があった。



上記写真の建物に掲げられているバー鑑札



上り坂の狭い路地はかつてカフェー街だったようだ



この建物もアーチ形を多用している(2枚とも)



閑静な住宅街に突如として現れる「Bar一二三」


妓楼風の家屋からはテレビの音声が聞こえてくる



未だ木造電柱が残っている。「皆ヶ作」の名はこういうところにしか残っていない




「スナックロロ」の先に冒頭写真の遺構があった。現在は普通の住宅になっている。



割烹「飯田屋」



遊廓地を貫く渋いアーケード商店街「仲通り商店会」



飲み屋が続く細路地。



壁にある獅子のような装飾は魔除けなのだろうか。



訪問 2018年8月(★一部2014年8月)










横須賀三大赤線のうち、公認の許可地だった「柏木田」は、鎮守府の開設と同時にできた遊廓地。

『全国遊郭案内』によれば、「貸座敷が二十六軒あり、娼妓は百五十人を突破して居るといふ豪勢さ」という。

遊廓の遺構だった「福助ホテル(旧・福助楼)」は解体され、名残りは殆ど見られない。

その遺構があった当時(2012年)に一度訪れ、それ以来の再訪。


★遊廓のメインストリート



★福助の絵が描かれた丸型の看板(2枚共)2012年3月



大門があったと思われる辺りから撮影。異様に幅がある通りで、恐らくメインストリートか。



「福助ホテル」があった辺り。街並みはすっかり変わっている。


メインストリートの奥まった場所にお稲荷さん



さらに奥まった路地に洋風の玄関を持つ一軒。



玄関にアールを残す一軒。この辺りは戦後カフェー街だったのだろうか。



主が不在で緑化が進んでいるが、二階を見ると妓楼風の窓が残っている



銅板葺きの店舗建築。遊廓の周辺は店舗も多く並んでいたのだろう。



訪問 2018年8月(★一部2012年3月)





京成立石駅前に戦災に遭った亀戸の業者が移転して特殊飲食店街を形成。

戦後に進駐軍相手の慰安施設(RAA)を経て赤線に、「六十軒、約三百名のこじんまりとしたところ」(『全国女性街ガイド』)。


京成線沿いの飲み屋街に残るカフェー建築。







白く塗り重ねられた円柱の剥がれた箇所から豆タイルが所々顔を出す。













赤線街の近くに残る「呑んべ横丁」。再開発で間もなく見られなくなる光景だ。



ここが赤線と思われがちだが、元々は「立石デパート商会」というマーケットだった。



マーケットの名残と思われる洋品店の看板








線路を挟んで反対側のアーケード商店街「立石仲見世」も戦後のマーケットから出発した。



モツ焼の店「宇ち多゛」はいつも行列だ。



昔ながらの個人商店が多いが、シャッターが閉まっている店も。



奥戸街道側の出入口。


訪問 2017年6月



吉原に匹敵する東海一の遊郭で、「旭廓」とも呼ばれる。

『全国遊郭案内』によれば「貸座敷は百三十九軒あつて娼妓は千六百五十人居る」。

戦後、赤線「名楽園」を経て、現役の特殊浴場街。

大規模な遊廓建築が残っているが、近年は解体が相次ぐ。



旧遊廓の中心。中央は大門通り。




残されている妓楼建築の規模は概ね大きい。




旧遊廓の目抜き通り。特殊浴場に混じって妓楼建築が残されている。




赤線遺構に合わせてか、カフェー建築風に改装された妓楼建築も見られる。



妓楼建築と特殊浴場が隣り合っている。




特殊浴場に改装された妓楼建築。





竜宮城を思わせるベンガラ色の妓楼建築。




名古屋市都市景観重要建築物に指定されたほどの妓楼建築「長寿庵」(現存せず)




冒頭写真の硝子絵が見事だった。




妓楼からの転業だった「旧松岡旅館」。


緑の市松模様が鮮やかなタイルを持つ一軒。



和洋の赤線遺構を併せ持つ一軒。左は「ツルヤ」、右は「春福」。



特殊浴場街を外れると閑静な住宅街だが、こうした赤の残滓が残っている一角も。



妓楼建築と思っていたら、かつての銭湯だった。




洋風の銭湯「寿湯」。




大門通近くのアーケード横丁「大門横丁」。




旧遊廓の南側に残る飲み屋街。「青」の名残りかもしれない。




旧遊廓の外れに残る成人映画館「中村映劇」。よく見るとモダンな外観が見えるので戦前築か。



訪問 2013年2月

福原に隣接するかつての繁華街。

東の浅草と並ぶ歓楽街だったが、現在はさびれている。


新開地一丁目のアーケード入口。





アーケードに隠れている看板から戦前築ではと思われる。





アーケード街から外れた飲み屋横丁「松竹小路」。近くにかつて演芸場「松竹座」があった。


水路がギザギザに続いていて、権利の複雑さを物語る。



「その筋」とはどの筋なのだろうか。


こちらの横丁の入口には時代がかったゲートが残っている。



往時の賑わいを想像させるような看板建築が向かい合う。



リフォームされているが、ファサードはカフェー建築風だ。



新開地二丁目アーケード入口。



上写真と同じアングルで撮った昭和48年当時の写真(右)

現在のラウンド1がある場所に新開地を代表する劇場「聚楽館」があった。



訪問 2015年11月


現役の特殊浴場街、原形は公認の許可地「金津遊郭」。

現在地に移転したのは戦後、赤線として「金津園」が成立、「七十二軒、四百名」(『全国女性街ガイド』)。


岐阜駅ホームからの眺望。駅前すぐに特殊浴場街が展開される。




岐阜駅前の街並み。特殊浴場の店舗が眼前に並ぶ。



特殊浴場街に混じって赤線建築が点在している。




近年まで現存していた赤線建築「ふじもと」。



きらびやかな豆タイル装飾の窓廻り、桟は富士山を模している。




現在は喫茶店として使われているタイル張りの赤線建築。




特殊浴場と並び形で残る旅館もカフェー建築だ。




特殊浴場と旅館を兼営している「想い出」。



扇に山月を模しているのだろうと思われる桟も見事だ。



トタン張りの煙草店。赤線時代からのものか。



金津園特殊浴場街。営業は昼からなので早朝は閑散としている。店割りは赤線当時のまま。





訪問 2013年2月





東京で数少ない現役花街。

『全国花街めぐり』によれば、昭和3年ごろから紛擾を起こし、新券と旧券の二派に分離した。

「旧券 芸妓屋 四十八軒、芸妓約九十名。料亭 七軒、待合 四十軒。」

「新券 芸妓屋 七十七軒、芸妓 百四十九名。料理店 十六軒。待合 九十軒。」

戦後は「置屋百五十軒、芸妓三百七十名」(『全国女性街ガイド』より)。

現在は「料亭18軒、芸妓120名」(2009年現在、Wikipediaより)と減少しているものの、残り少ない花街においては多い方だろう。

旧赤線「鳩の街」の辺りまで花街は広がっていて、現在も広範内に現役料亭が点在している。


見番通り



見番である「向嶋墨堤組合」



見番通り沿いの現役料亭「美加古」



かつての料亭と思われる一軒。スカイツリーが背後にそびえる。



戦前築か、下見板張りの一軒が残っている。



料亭に混じって小さい飲み屋も混じっている。



料亭「波むら」



料亭「千穂」



かつての待合か、趣のある一軒。



料亭「千代田」



かつての待合か、複雑な外観の一軒。



見越しの松が情緒を出している。



料亭「入舟」



かつての旧赤線「鳩の街」付近まで趣のある街並みが残る



「鳩の街」近くの細路地に戦前築の町家が残っている



料亭「きよし」



美容室と質屋が向かい合っている通り。ここまで来ると「鳩の街」は近くだ。



向島花街近くの桜橋から隅田川を望む。手前の橋は言問橋(昭和3年竣工)。



花街近くにある少年野球場。少年時代の王貞治はここで野球に打ち込んでいた。



訪問 2018年7月





公許の遊廓地だった「永真カフェー街」に対し、私娼街から赤線になったのが「曙町」。

『全国女性街ガイド』によれば、「百十九軒に三百七十一名の世帯」。

現役の色街だが、それらの店舗に混じってカフェー建築が僅かながら残っている。


国道16号線。路線バスが通る幹線道路だが、けばけばしい風俗店ビルが並ぶ



国道16号に平行する細い通りに建つ転業アパートらしき一軒



上記建物の玄関先



かつて「親不孝通り」と呼ばれた細い通りには、いまも現役店舗が並ぶ



冒頭写真の一軒



カフェー建築をそのまま利用した現役店舗




現役店舗が並ぶ「親不孝通り」



明らかにカフェー建築と思わせる建物を転用している店舗が多い



建物をよく凝らしてみるとカフェー建築のファサードであることに気付く


風俗店街から外れた先の飲み屋街



何処か旧青線を思わせる通りが残る



曙町四丁目交差点。国道16号に残る看板建築



回転窓が目立つ一軒。廃墟と思われたがいまだに使われているらしい



弥生町界隈にもカフェー街が広がっていたが、遺構と思しき建物はこのアパートぐらいか





訪問 2016年12月




横浜の赤線は私娼街「曙町」と公許の遊廓「永真カフェー街」、チャブ屋街「本牧」。

永楽町と真金町を合わせて「永真遊廓」で、『全国遊郭案内』によれば、「貸座敷が五十九件あつて娼妓は約五百人」。

戦後は「百九十軒の店に七百名」(『全国女性街ガイド』)という規模。

「曙町」と対照的に、現在はほとんど名残りがない。


横浜橋商店街 遊廓はこのアーケード街に隣接する場所にあった



横浜橋市場



大鳶神社



玉垣に「遊廓」の文字



寄進者に落語家・桂歌丸の名。生家は永真遊廓の「富士楼」で、最期までこの地に住んでいた



大鳶神社の正面の通りが「大門通り」、遊廓のメインストリートだった



名残りと思われる一軒


戸袋に描かれているのは家紋か




赤線から受け継がれていただろうか、そう思わせる一軒


遊廓の名残を思わせる街中華屋さん



未舗装の細い路地が残る



遊廓とアーケード街をつなぐ細い路地。その先に「マイク濱」の舞台となった喫茶店がある



「マイク濱」にも登場した喫茶店「マツモト」



訪問 2016年12月







東京を代表する一大古書店街で有名だが、周辺に大学や出版社も多く、文化の中心地でもある。

戦災に遭わなかったため、戦前から残る建物も少なくない。



靖国通り沿い古書店街 矢口書店は戦前築



裏手にも看板建築が並ぶ



靖国通り沿いに残る長屋風の店舗建築



一誠堂書店(昭和6年築)



すずらん通りの街並み 左手の「文房堂」は大正11年築の外観を保存



スクラッチタイル装飾の「はちまき」 江戸川乱歩行きつけの店でもあった



すずらん通りは看板建築が多く残る



「小諸そば」が入る看板建築



「うなぎの今荘」昭和8年築



「中華成光」これも戦前の看板建築



「日本タイ協会」(旧無尽銀行)昭和4年築



三省堂書店裏手の路地裏 界隈はレトロな喫茶店も多い



「すずらん通り」裏手の通り街並み 左手の銅板建築は前述「はちまき」勝手口



銅板建築が残る通り



一ツ橋交差点 左手に「共立講堂」右手に「学士会館」ともに戦前建築



「共立講堂」昭和13年築 設計・内藤多仲



「学士会館」昭和3年築 設計・佐野利器、高橋貞太郎



「博報堂」昭和5年築 一度解体後に外観を復元



訪問 2018年6月







慶応義塾大学の御膝元で有名だが、戦災に遭わなかったことで戦前から残る建物が点在。


綱町三井倶楽部(旧三井家綱町別邸)大正2年築・コンドル設計



かんぽ東京サービスセンター(旧逓信省簡易保険局)昭和4年築



旧三田小山町の街並み 奥に廃業した銭湯「小山湯」が見える



近年開発が目立つ旧三田小山町だが、こうした路地裏の街並みが残っている



旧三田豊岡町の街並み



戦前の住居表示板が残っている しかも状態がいい



戦前の銅板葺き店舗



モダンなファサードの看板建築



慶応義塾近くに残る出桁造の酒屋「津国屋」さん



元々は寺町だった三田 この界隈は坂が多い



もともと寺町だった坂上の地に昭和の家屋が残っている



正面に東京タワーを臨む桜田通り 慶応義塾大学東門前から



田町駅に向かう繁華街にも戦前建築が残る



訪問 2018年6月